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銀座で見た幻想と現実——「スペクトラム スペクトラム」を観て

前置き

 

どうも前置きをしたい性分である。本稿は京都にある浄土複合のライティング・スクール基礎コース第7期生として提出したものに加筆修正したものである。課題で提出したということを書いても書かなくてもいい、と言われているが書きたい性分である。

 

このスクールを選んだ理由は「講師からのメッセージ」の一節にある。

 

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なぜ無理しすぎてはいけないのか。

書くことは、この講座に通う一年間で終わりではないからです。

 

https://jodofukugoh.com/school/2022/03/15/653/ より

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本当にその通りだ。これ以上ないくらい納得した。

 

突然だが、わたしの履歴書の職歴欄は悲惨なものである。転職が多い。飽きっぽい性格なのかと自己分析したくなる。だがそんなわたしでも、思いの外、長く続いた部活や習いごとの記憶がある。それら続いたものの共通点は、始めたときも続けていたときもわたし自身がリキまなかったことだ。過度に自分に期待していなかった。それらの部活や習いごとは日常の一部に組み込まれ、そのうちなんとなく小さな目標ができ、ちまちまとクリアしていた。

 

あの感覚が「書くこと」に必要なのだ。

 

SNS全盛時代、「何者かになりたい欲求」も全盛である。ここでの「何者か」は他人に与える影響力が強い者のことである。フォロワー、いいね、リポスト、インプレッション、すべてが数値化され、皆が「影響力スカウター」を標準装備している状態だ。数値化は辛辣だ。数字の大きさは影響の大きさであり、支持や共感の証しである(と信じられている)。数値化により他者との比較が容易になったことで、ときに自尊心が傷つく。マネタイズにも関わってくるから厄介だ。承認欲求と資本主義の悪魔合体か。より大きい数字へ、もっともっと、と何かに駆り出される。

 

タイムラインに紛れ込む数多ある講義、講座、スクール、すべてが訴えかけてくる。「学べ。学ぶことでオマエは変わる。学び終わったオマエは以前のオマエではない。より強大なオマエになるのだ、、、!!」

 

学ぶことは変わることではある。だがその変化は不思議なベルトやステッキで「へんしん!」とやるような変化ではないだろう。強大な敵を倒すためのキツい特訓による急激な変化でもない。「何者かになる」もなにも最初から最期までわたしはわたしなのである。「あれ、ちょっと前髪切った?」程度の変化が妥当だろう。今回の課題も2,000字という制約があった。以前PARAの講座で書いた書評も毎回2,000字の制約があった。その経験があるから「2,000字で書けること」の大体の目安がついていた。わたしは前より少し変化している。

 

ちまちまちまちま、書くことに終わりはない。こうやって書くとなんだか「書くことをライフワークにするのだ」というような決意にも受け取られかねないがちょっとちがう。そもそも「書くこと」を始めたのもリキみがなかった。人生の中で思いがけなく三人ほど褒めてくれたから、校正で残業しても苦痛じゃなかったから、のような気づきの結果だ。

 

リキまない。ちまちまちまちま。

 

以下、この前置きとまったく関係ない展評が始まる。

 

 

 


銀座で見た幻想と現実

 

東京都中央区にある銀座の地名は幕府の銀貨鋳造所が置かれていたことに由来する。その周辺は商業地域として発展し、日本最大とも言える繁華街を形成するに至った(1)

 

ゆえに銀座にはいわゆるハイブランドが多く出店している。銀座メゾンエルメスもその一つである。

 

その8・9階にあるアート・ギャラリーにてグループ展「スペクトラム スペクトラム」が開催された。エマニュエル・カステラン、題府基之、川端健太郎、マリー・ローランサン、ヨハネス・ナーゲル、ヴァルター・スウェネン、津田道子の7名の作品群が異世界のような空間を作りあげている。

 

地下鉄の銀座駅からメゾンエルメスに直接上がった先のエレベーターは通常、行き先が8・9階のギャラリーと決まっているのだが、訪れた時には3・4階の販売フロアにも止まっていた。店内の他のエレベーターの改修工事の影響だそうだ。ギャラリーに関心がある層とエルメスのプロダクトに関心がある層に違いがあるように感じたが果たして本当にそうだろうか。タイトルに用いられているスペクトラムという言葉はさまざまな意味を持ち、亡霊や幻視といった非現実的なものをも指す。この「スペクトラム スペクトラム」展は外の現実とは違う世界を表現するものだろうか。

 

販売フロアを軽く見た後で9階までエレベーターで上がると、すぐに自分自身を映し出す鏡に迎えられた。その鏡には向かい合わせになった画面が映っている。鏡とその向かい合わせの画面との間に鑑賞者が紛れ込むような位置関係である。これは津田道子の作品だ。第一印象では合わせ鏡かと思った。

 

 

合わせ鏡は不気味である。合わせ鏡は時に異世界との出入口を出現させる。子供のころに聞いた怪談話は、夜中の3時に合わせ鏡をすると幽霊がこの世界に入ってきてしまう、というものであった。

 

実際には合わせ鏡ではなく片方はモニターであり、そこに映し出されていたのは「少し前の自分」である。この時間差から「録画されている」と身構えた。階下の販売フロアにも監視カメラはあったが慣れのためか平常心は保たれていたのに、ここでは妙にソワソワしてしまう。合わせ鏡の不気味さが加わることで感じるこの緊張感が、いつもとは違う場所に足を踏み入れてしまったことを鑑賞者に知らせているのかもしれない。展覧会の導入としてはこれ以上ない配置である。

 

 

津田のカメラは、9階から8階へと降りる階段の前や展示空間の狭い部分に入る前にもあり、定期的に鑑賞者の平常心をかき乱す。また会場全体にカン、コン、カン、コンという金属音が鳴り響いているが、これも津田の映像作品から発せられる音である。この音は時計の秒針や心拍数を想起させる。映像の中でカメラが振り子のように動くと椅子に座る人物が娘、母、祖母、猫に入れ替わるという、鏡を利用した作品だ。津田の作品は鏡やカメラ、音を通して会場全体に緊張感を与えるとともに、「今この場所」ではない別の空間を鑑賞者に見せている。

 

 

 

 

8・9階を使った吹き抜けの空間には開放感のある景色が広がっていた。大きなアサリが開いたかのような川端健太郎の磁器作品が点在し、その先にエマニュエル・カステランの黄色い夕陽のようなキャンバスが広がる。「今この場所」からさらに遠い、砂漠、あるいは、別の惑星に来たような感覚を覚える。

 

 

 

 

その中で、周りとは少し違って感じられたのはヴァルター・スウェネンの作品である。《ジェイル》という作品に描かれているのは煙突のある赤い家の展開図で家の壁部分に「JAIL」すなわち刑務所とある。展開図をぐるりと囲む黄色い文字は「BAN DE BANK」と読める。赤や黄という色からは警告のような強い印象を受けた。

 

「BAN」=禁止、「BANK」=銀行ならば、「銀行禁止」である。貨幣をつくっていた土地の、ハイブランドが売られている建物内で、「銀行禁止」とは何かの皮肉だろうか。無いものを禁止することはできない。幻想的な異世界と感じていたこの場所にも刑務所や銀行は存在しているのだろうか。改めて、会場に点在する津田作品のカメラは何らかの禁止行為を抑止するものとして捉え直すことも可能である。急に現実世界に引き戻された感覚に陥った。

 

 

 

 

現実を意識させるものは他にもある。会場のいたるところにあるカステランの大きなキャンバスは、絵画の支持体というより「布」であることを強調するかのように、手すりや梁にかけられたり床に畳んで置かれたりしている。このキャンバスからは物体そのものを強く感じる。会場全体が異世界へと誘うイリュージョンなのだとしたら、この物質性は一瞬にして現実世界を意識させる。

 

 

 

 

一見、幻想的に見える空間の中で、外の現実と変わりはないと示唆するような要素もまた散見された展覧会であった。そしてこの空間の中においては、それらの現実的な要素のほうが「スペクトラム」——すなわち亡霊や幻視——的な不気味さを醸し出していた。そんな逆転現象を経験した後には、地下鉄構内の見慣れた監視カメラに緊張しない自分にわずかな違和感が芽生えていた。

 

 

 

 

 

 

(1)浅井建爾『日本の道路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2015年10月10日、P.182

 

 

 

 

 


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